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2020.7.7

何屋

オレって、何屋かな?なんて思う朝があります。
自分って、なにもんかな?なにやりたいのかな?
なにになりたいのかな?なにを残したいのかな?
・・なんて感じです。

本棚の前で、何気なく、
村上春樹の、
『走ることについて語るときに僕の語ること』をペラペラとめくり読み、
その後、何気なく、ちょっと読みたいなぁと、
坂口安吾の『堕落論』を読んだ。


時が流れるように、変化は止められない。
目に映っていたもの、そこに在ったはずだったもの、
それらは気づかないうちに、
もう無くなっていたというものも、たくさんある。

歴史を見ても、
世の中というものは変わっていくもの。
その中で、
古きものは良かれと思い新しくされ、
新しくなったものは「古き感じが良かったのにな」と、
時にその変化を疎ましく思われたりもする。

けれど、
変わることは、決して、墜ちることではないと思う。
逆に言えば、墜ちることも、
それは、負けではなく、
変化だと思えば、
それもそれで、生きようとしている証だとも思う。

世の中同様、
人についても、
人は変わるし、人は上がりもするし、堕ちたりもする。

どちらにしても、

とどまるも、
変化も、
どちらも、それはそれで、
力がいるものだなと思う。
しがみつく力。
続けようとする力。
耐える力。
跳ね返そうとする力。
逆風に突っ込んでいく力。

そして、また真を探れば、
とどのつまり、

目に映る、その在り方、その変化は、
どうでもよく、

依然として、
心の中に流れる、
「私は、こうありたい」という想いに、
あがいたり、もがいたり、揺れ動いたり、戦おうとしたり、
「私は、なんなんだ?」という問いに、
言葉を失ったり、一喜一憂したり、あがいたり、探し彷徨ったり、

そんな姿勢、そんな生きるという毎日が、
大切なんじゃないのかな・・というようなことを、
考えてみた朝。


アリンコの一歩も、
蝶の蜜探しの旅も、
サラリーマンの何万歩も、
シンガーソングライターのかすれた声も、
小さな部屋の寝息も、
厨房で皿を洗うひびわれた指も、
夜の街のテーブルに置かれたグラスも、

やっぱりどれもが、尊いものだと思う。


そして、朝も、そうして時は一刻一刻と流れ、
本を閉じて、頭を洗う洗面台。

何処にいても、
今そこで、
必死に生きようとしている人たちを、
ここからは、
「がんばってください」とただ想い、
「耐えてください」とただ想い、
もう一度笑顔を取り戻してもらいたいと願うことしかできないけれど、

そんな人間もここにいるんだということを、
僕は、
僕として、
歌に残しておけたらと、
鏡の中の無様に濡れた顔を見ながら、
思う。
届けるために。
届けられる日のために。